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ICC10年の歩み クリエイティブディレクター  前田弘志さん

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黒と赤を基調にしたデザイン展開は、インタークロス・クリエイティブ・センター(ICC)の存在を表す基本。クリエイティブディレクター/デザイナーの前田弘志さんは、2001年のICCオープン以来、一貫してそのデザインワークを手掛けてきた。企画・制作プロダクション「バナナムーン・ステュディオ」を経営する一方、時に札幌アートディレクターズクラブ(札幌ADC)の創設に力を注ぎ、時に大学院生として企業のブランディングを研究するパワーの持ち主だ。
一デザイナーとしての活動に閉じない、その想いや実績、ICCデザインワークの裏話を久保俊哉チーフコーディネーターがインタビューする。
 

― 前田さんにはICCのデザインワークをオープン以来ずっと担当していただいています。個人的にもそれ以前から仕事でお付き合いさせてもらっていますが、今日は、デザイナー、そしてクリエイティ ブディレクターとしてのこれまでの実績や札幌ADCの創設に尽力された話など、深いところまでお聞きしていきたいと思います。
 まず、デザインの道の入ったきっかけからお話しいただけますか?


この道に入ったのは、北海学園大学経済学部在学中に、プロのミュージシャンになりたくて、スタジオ代を稼ぐために求人情報系出版社の学生援護会(現 株式会社インテリジェンス)でアルバイトを始めたのがそもそもの始まりです。
最初は『日刊アルバイトニュース』の企業レポート記事を作成するためのライター業務やイラストレーションが主だったのですが、その後、会社が『DODA(デューダ)』の北海道版を創刊することになって、その広告キャンペーンの企画と制作を担当するようになりました。
結局、そこでのアルバイトが高じて、大学には7年間も通うことになってしまったのですが、「ちゃんとこの道でやっていこう」という意志を持つようになりました。それで、卒業と同時に一流の人に師事したいと思い、岸本日出雄さんというフォトグラファーの口添えで、アートディレクターの玉本猛氏の事務所に入れてもらえることになったんです。後にも先にもただ一人の直弟子で、「玉本流」を基礎から学ばせてもらいました。


― そこでは思い通りデザインを勉強できましたか?

玉本さんの事務所はとにかく蔵書がものすごくたくさんあって、仕事中も仕事の合間にも読みまくりました。東京ADC年鑑やJAGDA年鑑などが何十年分もズラリと揃っていたので、毎日むさぼるように読んで、過去から現在に至るまでどんなデザイナーが活躍していて、どんな作品を作っているのか、たくさん頭に入れました。玉本さんが見せてくれる技術も本当にすごくって、お金をもらいながら勉強させてもらった感じでしたね。


― まさにデザインに目覚めたという感じでしょうか?

当時は糸井重里さんとか川崎徹さんのようなスターがいて、広告とかCMが元気で面白い時代だったので、広告に対する憧れを漠然と持っていました。最初はライターから入ったのですが、デザインのほうが華々しくてカッコ良さそうだなと思っていましたね。海外ロケなんかがある仕事でディレクターとかやりたいな、みたいな。(笑)

 

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インタビュアーの久保俊哉氏(左)と前田さん。知り合って15年になる



― 当時のデザイナーの仕事というのは、具体的にどんな内容だったのですか?

今のようにPCでデザインを起こすような環境はなくて、全て手作業です。広告や雑誌の誌面などは、「版下」と呼ばれる厚紙の台紙の上に文字や図版をゴム糊で貼って仕上げ、印刷会社に入稿するのがデザイナーの仕事でした。ラフスケッチを描くのは今と同じですが、文字は職人さんに「写植」という和文タイプライターの写真版のようなもので印字してもらい、その印画紙を僕らが手作業で切り貼りし、イラストや写真の指示を貼り込み、色指定をするという形ですね。


― 私も広告代理店にいたことがあるので良くわかりますが、版下制作は、今では考えられないアナログな世界でしたよね?

僕がアルバイトで入った学生援護会は、当時、北海道に支社を開設したばかりで、編集者は何人かいたのですが、デザイン担当者は一人もいませんでした。そんな中で「キミ、デザインに向いてそうだから、やって」と。しかし、僕はデザイン教育を受けていないので、わからないことだらけでした。例えば色指定をするのも、「ここは赤」などと、とてもアバウトな指定をしていたのですが(笑)、見かねた印刷会社の担当者がカラーチャートを持ってきてくれて、やり方を教えてくれたり、版下が製版にまわって実際に印刷物になるまでの工程を見学させてくれたりしました。
現場の工程を知ることができたのは幸運でしたね。あとで知り合ったデザイナー仲間から聞いたのですが、デザインの専門学校などでも、絵を描いたりするテクニックを教えるのが中心だったらしく、彼らでも現場のことは就職してから初めて知ることだったようです。
印刷の現場とそこで使われているテクノロジーはとても刺激的で、すっかりその製版テクノロジーの虜になってしまいました。


― もともとそうした技術的なものへの関心は高かったのですか?

そうですね。玉本さんのところには1年半ほどお世話になった後、独立したのですが、ちょうどその頃にMacintoshが出てきて、そのテクノロジーにまたのめり込んで行きました。シンセサイザーをやっていたこともあって、Macへの関心はすごいものがありましたね。MacでのDTP(DeskTop Publishing)を普及しようと、デザイン用品商社のいづみや(現 株式会社Too)と組んで、道内の色々なところに出かけて行って普及活動をしたり、米国のソフトウェア会社からの依頼で、後にDTPソフトのスタンダードになることになるソフト開発の公式テスターを務めたりもしました。契約上、社名やソフト名は言えないのですが。
どうも自分はまだ誰もやっていないところに入って行ったり、勝ち目がないと思ったら新しいフロンティアを見つけるのが好きなようで(笑)、テクノロジーやMacに傾注したのはそんな理由もありますね。

 

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ライターからスタートし、デザインの道へ。デジタル化の黎明期にはMacintoshに傾注した



― デザイナーとして自信を持つきっかけになったことなどは?

「DODA(デューダ)」の広告で全北海道広告協会の賞をもらったことですね。独立して1年経った1991年のことです。前年に独立しましたが、学生援護会には年間契約で仕事をさせてもらっていたので、当時の支社長もとても喜んでくれました。
僕は美術教育を受けていないこともあり、コンペのような専門的な目で外部評価をもらえるようなもので、自分の力がどのあたりにあるのかを測りたいという意識があったんですね。そういう意味でもコンペで選ばれたことはとても嬉しかったですし、自信にもなりました。


― 他のデザイナーと比べて何か違うなと思う点などはありますか?

最初にデザイナーではなく、ライターの仕事から入ったせいか、デザインを起こすときも、まずはイメージを言葉で積み上げていって、それを絵にしていくという形が多いですね。札幌には優れたデザイナーがたくさんいて、友人にはビジュアルが「降りてくる」という天才肌のデザイナーが何人もいますが、僕は残念ながらそうではありません。コピーも自分で考えるので、そこは他のデザイナーとは違う点かもしれません。


― コンペへは早い時期から出品していたのですか?

そうですね、20代の頃から。世界遺産のポスターを展示する展覧会のために作った作品が初めてワルシャワ国際ポスタービエンナーレに入選し、1992年には開業前のサッポロファクトリーがポスター大賞というアートコンペ的なものをやったのですが、それにも出品して賞をもらいました。テクノロジーの活用を自分のスタイルにしようと思っていた時期で、友人のフォトグラファーと組んでMacを駆使して作品を作って、それを出品しました。
Photoshopがちょうど世に出た頃で、PCを使って合成をしてみようとか、色んなトライをしていました。初期のPhotoshopはカラー表示がRGBにしか対応していなくて、CYMKにするとディスプレイで見れないとか、undoが1回までしかできないとか、色々な制約があって、今思うとよく使っていたなぁと思います。

 

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国内外のコンペでアワード受賞歴も多数。前田さんにとって、コンペは外部評価がもらえる貴重な機会だ



― 私が前田さんが出会ったのが1996年頃、そして、2001年4月にICCがオープンするわけですが、「4月のオープニングまでに間に合わせてほしい」と無理を言って、ICCのデザイン展開をお願いしました。基本のロゴデザインは高橋一郎氏が作ってくれていましたが、パンフなど、色々なツールに展開していく作業が必要でした。時間がない中で、こちらとコンセプトを共有しながらプロの仕事をしてくれる人は誰かと考えた時、前田さんしか思い浮かばなかったのです。それで「急な話ですけど・・」といってお願いしたんですよね?

その時のことは今でもよく覚えています。話を聞きながらディスカッションしている間に、その場でかなりアイデアが出てきて、もういくつかデザインのスケッチを作ってしまいましたね。時間をかけなくても良いものが出来るんだなとその時思いました。もちろん、時間はかけるべきですが。そしてお金も。(笑)
高橋さんのVIがたまたまそうだったからではあるのですが、この仕事で「赤」と「黒」の組み合わせの使い方がとても上達したんじゃないかと思います。それまで僕はあまり使わなかった組み合わせだったのですが、「赤」が「黒」と出会うととても素敵になることを、この仕事で教えてもらった感じです。


― VIを策定する際に、高橋さんとは、ICCは皆それぞれに色を持った人が集まる施設になるだろうから、無彩色を使うことで話をしていたのですが、それではあまりにも無味乾燥なので、それで赤を入れようということになったのです。

その考え方には僕も大賛成でした。ICCの主役は、やはりICCに集う様々なカラーやタッチを持ったクリエイターたちで、ICCは黒子ですよね。黒子のICCをデザインする上では、妙な色が付いているべきではないです。それに、どんなデザインにも「×」は絶対に入っているべきだと思いました。「×」のロゴだけ入っていれば他の表現は何でもありってことではなくて、ビジュアルやフォルム全体が「×」を発しているべきだと。それで、黒白グレースケールにクリエイター共通の情熱の色「赤」のみを使うこと、必ず「×」であること、中性的・無機的なものをモチーフにし、そして特定の個性に強く傾く情感・肉感表現やタッチにはしないことを、僕自身の「縛り」にしました。要するに「前田っぽいタッチにしない」ってことです。
とは言え、その後ICCのビジュアルでたくさんの賞をもらうことになりましたので、結果的には僕にとって出世作になりました。韓国国際ポスタービエンナーレでシルバーを受賞できたのは嬉しかったですね。その他、チェコのブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ、富山の世界ポスタートリエンナーレに入選し、北のペーパーコンクールではグランプリを、札幌ADCでもシルバーを受賞しました。本当にありがたいことです。

 

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ICCオープン時以来、デザインワークを一貫して担当。パンフレット、ポスター、カレンダー、トロフィーなど、制作点数もj数多い


 
― ICCは常に“Under Construction”で発展しつづけていくというコンセプトに共鳴してくれて、グッズ展開も積極的にやりましたね?

デザインをしたというよりも、ストーリーを考えて展開していくという仕事でした。“Under Construction”というコンセプトの核がすでにできていたので、それをもとにストーリーを考え、形にしていきました。最初の段階で8つのお話を作り、2年目以降はそれをさらに発展させて行きました。
 

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ICCのデザイン展開を依頼されたのは、オープンまで1ヶ月もない時期だった。驚異的なスピードでアイデアを形にしていった



― カレンダーは毎年新しいチャレンジをしてもらいました。


ICCのカレンダーですから、毎年必ず何か新たなクリエイティブ・チャレンジをすることを自分に課しました。新しいカタチや仕掛けです。アニメーションするとか、パタパタ開いていくとか。「使いづらい」という感想をいただくこともありましたが、それでもチャレンジをしようと。


― とにかくチャレンジをしないとダメですね。賛否両論があるのは当然だと思います。私はアートディレクターはあまり替えない方が良いという考え方なので、ICCのデザインワークは一貫して前田さんにお願いしてきました。付き合いも長くなりましたね。

こればっかりはクライアントの考え方次第なので、久保さんがそうした考えの持ち主だったことはとても幸運でしたし、ありがたく思っています。私も久保さんと同じ考え方で、やはりアートディレクターはポンポン替えるのではなく、長く担当するほうがクライアントに良い影響を与えられると考えています。特に、ブランド形成とかブランドイメージの蓄積という面では「積み重ね」が大事ですからね。実はそのあたり、大学院の研究で、いくつものケースをリサーチしました。


― ICCのデザインワークの集大成ともいえる作品集を昨年発行されましたが、前田さんの作品集であると同時にICCの歴史もそこには記録されています。これを見た人は皆一様に唸ります。

表紙から最後のページまで「×」だらけですからね。見る方もしんどくなって唸るのでは。いや、良い思い出を作れました。(笑)
中長期にわたる時間軸を視野に入れた上で、継続的・発展的に展開していくクリエイティブの考え方の表現形を、僕なりの具体例としてまとめることができたとは思っています。
ICCウェブサイトでも、ブログ「×10」のコーナーで紹介しています。

 

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昨年発行した「Hiroshi MAEDA × ICC」。ICCのデザインワークの集大成ともいえる記念碑的な作品集となった



― ICCのオープンが2001年、同じ年に札幌ADC(札幌アートディレクターズクラブ)も発足していますね。前田さんは札幌ADCの立役者でもあるわけですが、そのお話をしていただけますか?

札幌ADCの発足には、たくさんのクリエイターが準備に関わって、一緒に汗を流すことでこぎつけたものなんです。その発起人メンバーの中で、僕と寺島賢幸(寺島デザイン制作室代表)は、せいぜい「言い出しっぺ役」みたいなところでしょうか。寺島には人望があったので「声かけ担当」、僕は文書作成が得意だったので理念や組織、活動のアウトラインを起案して書いたりと、自然とそういう役回りになりました。
そもそもの発端は、寺島と一緒に世界ポスタートリエンナーレから帰ってくる飛行機の中での会話でした。そのトリエンナーレで、世界のもの凄い刺激に満ちたポスターたちを生で見て興奮していたのと、その中に僕らの選ばれた作品も並んでいて誇らしかったのと、札幌のみんなにもこんな体験をしてほしいなという思いとがぐるぐる回って。富山ADCを立ち上げた、はせがわさとしさんに会って背中を押されたというのもあるのですが、札幌にはレベルの高いデザイナーがたくさんいるし、そうした人たちが集まって交流し、切磋琢磨することができれば、世界に目を向け通用するデザイナーだってもっと出てくるはずだと。そこに新しい人材も加わって、札幌のクリエイティブレベルがさらに上がっていくような循環になればいいなと。そういう環境が札幌にはなかったので、ないなら自分たちで作ろうよってことです。


― 自分たちで切磋琢磨できる場を作ろうと?

スポーツだって草大会や地方大会があって、国体があって、世界大会があるから目標が見えるし、上を目指してトレーニングしていけるじゃないですか。だから札幌ADCは「クリエイターの放課後の部活」で「地域のクリエイティブ運動会」なんです。毎年9月の連休にクリエイターが作品を持ち寄って、みんなが見ている完全公開の中で審査会を行います。「異様」とも思えるほどの熱気に包まれるんですよ。プロのクリエイターを目指す学生達もボランティアや見学で大勢集まります。そして、そこで選ばれた優秀作品を集めた年鑑を毎年発行しています。
ここ数年は毎年、札幌ADCの熱気を聞きつけたクリエイターのグループが、大阪や広島、九州、東北など、全国各地から視察にやってきます。「札幌モデル」が参考になっているかどうかはわかりませんが、着実に全国各地に地域ADCが生まれ、広がっています。

 

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前田さんが設立に尽力した「札幌アートディレクターズクラブ(ADC)」は、奇しくもICCと同じ2001年に発足



― 札幌ADCの活動のおかげで、国際コンペでも数多く札幌のデザイナーが受賞するようになり、改めてその実力の高さが証明されたことはとても大きな成果だったと思います。最近の動きはどんな感じですか?

まだまだ一部だとは思いますが、それでも世界大会で表彰台に上がったり、入選したりするクリエイターが続々と生まれていて、人数としてはすでに二桁にはなっています。日本では、世界大会で選ばれるデザイナーの数が東京に次いで札幌が多いです。大阪や名古屋より多いんですよ。寺島がいて、ワビサビの二人がいて、ワルシャワ国際でゴールドをとった目谷裕美子さんや、ラハティー国際でメダルをとった矢野佳糸美さんがいて、近年ブレークした岡田善敬くんや鎌田順也くんがいて・・・と、そんな凄い人たちがいる同じ街に僕もいるんだっていうことがすごくうれしいし、誇りに思います。
そのようになってきたのには、クリエイター側にちょっと変化があるなと思う点もあります。誤解を恐れずに言うと、札幌のデザイナーが東京的な伸し上がり方を身につけてきたというか・・。


― それはどういうことですか?

札幌ADCの審査会は、日本のトップクリエイター達に審査員を担当していただくのですが、彼らは「エライ先生」として来るのではなく、同じクリエイター仲間として応援しにやって来てくれるのです。だから、審査会が終わった後は、みんなで明け方まで飲み明かすことになり、地元の大勢のクリエイター達はめちゃくちゃ栄養をもらうわけです。
東京はやはり競争が激しいので、そうした中で伸し上がるために、トップクリエイター達はものすごく努力しています。自主制作、自主プレゼンをとにかく積極的にやっています。売り込みの努力が半端じゃなく、賞もどん欲に狙っていく。ネタやクライアントがないなどと言うのではなく、ないならば、親戚や友人・知人、行きつけの店などに協力してもらって、店のポスターを作らせてもらってコンペに出品するとか、ネタを自ら見つけてきて作品を作っているのです。
一方、札幌のデザイナーは仕事としてクライアントから発注されたものしか作らないことが常識になっていて、そういう案件がないと、「ネタがないから作れない」とか「クライアントの理解がない」というのを言い訳にしてきた面があります。
それが札幌ADCで知り合ったトップクリエイター達のやり方を知り、「そうか、その手があったのか」と気づき始めたのです。


― 自分の周りの人に協力してもらって、ポスターとかチラシとかを作らせてもらって、それを出品する人が増えているのですか?

増えていますよ。とにかく作って発表しないことには何も起きませんから、「目から鱗」状態だったと思います。親戚、友人・知人、行きつけの店などを当たれば、誰だって、まず数件は協力が得られるでしょう。クリエイターの側は協力してくれる店のポスターやチラシなどを作ってコンペに出品し、賞を狙う。一方、協力する側も、普段は費用の面などでプロモーションツールは作れないけれど、その話に乗ることでそれらが手に入りますから、双方のメリットが一致するわけです。しかも、普段プロモーションをしていない規模の小さな企業や店舗なら、効果がとてもわかりやすいという利点があります。もしも売上が上がったら、それは作った広告やツールによる効果が主因なので、クリエイターにとってもそれは成長の糧になると思います。
「賞狙いの姑息な手段」とか「卑しい動機だ」と言う方も当然います。でも、僕はそんな「ヨコシマ」な動機こそパワーだと思うんです。それに、身内ネタでも何でもいいから「今の自分が信じる、良いと思われるものを、思いっきり」作ってみることは、間違いなくクリエイティブのトレーニングになるし、身内であっても相談し説得する行為はビジネスの交渉練習にもなりますよね。自主制作は、プロスポーツ選手の自主トレと同じです。


― 大企業のデザインを手掛けることがデザイナーのステイタスだという価値観が強いのだと思いますが、道内は殆どが中小企業ですね。プロモーションしようにもできなくて困っている会社や店舗はたくさんあるのでは?

ビッグクライアントのビッグキャンペーンを手掛けたい気持ちはわかります。僕も20代・30代の頃はそうでした。ただ、これははっきり言えることですが、デザイナーやクリエイターが個人の力で解決できるのは、中小規模の企業に対してであって、本当に大規模な企業のビジネス課題に対しては、やはりクリエイターだけでは力不足です。大手の代理店などが編成する、クリエイティブ以外のいろんな専門職種を含めた大きなチームワークがふさわしい。さて、自分はどこのところで役に立てるだろうか。そこは認識する必要があると思います。
大学生の就職問題と同じで、大企業は人気があって、人材もリソースもあふれるぐらい集まってくるけれど、中小企業では不足していて困っているところが多かったりします。人気の大企業は大手さんにおまかせして、フリーランスのクリエイターや小規模なプロダクションは、もっと地場の中小企業に目を向けても良いのではないかと思います。

 

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「地場クリエーターはもっと地場産業の力になれるはず」。地場企業の活性化は前田さんにとって大きなテーマだ



― そうしたマッチングがうまく行けば産業や地域の活性化につながるし、札幌にデザイナーやクリエイターが集積している意味も高まりますね?

そう思います。景気が悪くなって、デザイナーやクリエイターは花形職業ではなくなりました。東京資本の露出度の高いビッグキャンペーンで一攫千金、なんてこともほぼありません。もっと足元を見て仕事をする必要がありますよね。地場の中小規模の会社やお店ならば、一緒に考え、一緒に作り、一緒に商品を売り、売れるようにしていく関係が期待されるでしょうし、地場のクリエイターが地場産業に対して力になれることはたくさんあると思っています。


― 前田さんご自身の現在の関心もそういうところにあるのですか?


中には、「商品が売れさえすれば、他はどうでもいい」といった考えをする経営者もいますが、それは極論ですよね。極論って全ての可能性を排除しちゃうことなので、僕は大嫌い。一方で、クリエイター側が「デザインは良くしたいけど、売れるかどうかは私には関係ないこと」と割り切っちゃうのもどうかと思う。デザイナーであれば、例えば「カッコ良くて、売れるもの」の両立を目指すべきだし、自分はそうありたいと思っています。そうすると、デザインだけを担当するのではなく、企業の経営戦略やブランディングに近い部分から入って、経営者の方と一緒に価値を創り出せるような仕事をしたいと思うわけです。それで、2002年から2年間、デザインの仕事を半分休んで、北大の国際広報メディア研究科という大学院で研究生活を送りました。2001年に札幌ADCを立ち上げて一段落した一方、凄くレベルの高いクリエイターたちと出会って、「クリエイティブじゃ、かなわないな」みたいな半ば挫折感と、「もっとがんばらなきゃ」みたいな気持ちとが両方出てきて。当時から興味のあった、ブランディングや企業の経営課題として、デザインワークやデザイン組織を有効にマネジメントするにはどうすればよいか、を研究テーマにしました。デザイン論でもクリエイティブ論でもなくて、組織論やマネジメント論の方です。もともと経済学部出身ですし。


― 大学院の研究生活はどんなものでしたか?


それはもう、毎日20代の学生達と一緒ですから、青春を謳歌しました。(笑)
それはそれとして、研究の背景に、僕が持っていた根本の問題意識は「クリエイター語」と「経営者語」の言語体系が違っているために、僕たちクリエイターと経営者の方々の間では、言葉が通じない、話がかみあわない、会話が成立しないということだったんですね。通訳なしで対話が成立しないことには、本当の意味で一緒に仕事はできないわけです。双方が片言でもいいから理解し合える「共通語」を探り、体系化できないだろうかと。
それで小早川護教授(現 名誉教授)に担当教官をお願いしました。小早川先生は元は野村総研の常務だった方で、「24時間戦えますか」時代を築いた企業戦士、バリバリの「経営者語」の人です。しかも「デザインやアートは全くわからん」と言い切るほどの強敵。(笑) 「この人に通じる言語をあみ出せば、万事解決。一丁上がり!」と思ったのです。もちろん、そんな簡単なことではなく、修了後も公私にわたって継続的にお付き合いいただき、今でも面倒を見てもらっています。体の動かし方、頭の回し方、心の配り方、それら全てが質・量ともに半端じゃない人で、教わることばかり。人間として本当に尊敬しています。
先生の人脈で、日本を代表する数々の大企業の組織リサーチや役員クラスの方々へのインタビューもでき、ついでにお酒もずいぶんご馳走になりました。(笑) やはり、そういう企業は考えも進んでいるし、地方の中小企業であっても学ぶべきことは多いです。そんな経験ができましたので、地場クライアントの経営により近いポジションに身を置いて、経営に有効に機能するデザインを創造し役に立ちたいという志向が、より明確になりました。

 

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20余年のキャリア、大学院での研究成果を活かし、熱き想いをもつ企業経営者とともに、新しい価値の創造をめざす



― 現在はそうした仕事ができていますか?


大学院に入る前と後では、クライアントの構成がガラリと変わりました。一番大きく変わったのは、エージェントの下請仕事がなくなったことです。まぁ、2年間も仕事を休んだので、それまでお付き合いいただいていた代理店もさすがに切りますよね。(笑)
その代わり、規模は決して大きくはないかもしれないけれど、すばらしい想いと熱意を持って、真剣に取り組んでおられる地場の企業経営者の方々と直接、一緒に仕事をする機会が得られました。業種は様々です。通信販売の企業もあれば、ものづくり系も食品系もあり、牧場やチーズ工房、商店街や個人商店の場合もあります。トップの意思決定ができる人と一緒に、商品やサービスのアイデアを練り、コスト計算もし、販売戦略を立て、売れる商品やサービスのデザインを考えています。


― それは意義深い仕事ですね?

企業の経営は常に短期的に答えを出さなければならない課題と、中長期的に対応していくべき課題の両方を同時に抱えています。エージェントを介した仕事の場合、どちらかに大きく偏っている場合が多いのですが、直接クライアントと仕事をし、経営に近いところに身を置くことで、短期と中長期の課題のバランスを考えながらデザインワークやブランディングをすることができます。
クライアントの規模が大きくなくても、クリエイターにとって見れば地味とも思えるような露出の少ないプロジェクトであっても、やりがいのある仕事だと思っています。


― 
とても元気が出てきます。札幌には優秀なデザイナーやクリエイターがたくさんいますから、そうした皆さんにもぜひ知ってほしい話がたくさんありました。今日はありがとうございました。


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■クリエイティブディレクター/デザイナー  前田弘志
(バナナムーン・ステュディオ 代表)

(moss linkage) http://www.mosslinkage.com/file/maeda/
(札幌ADC) http://www.sapporo-adc.com/
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聞き手  久保 俊哉 (ICC チーフコーディネーター)
構成・文 佐藤 栄一 (プランナーズ・インク
写 真   山本 顕史 (ハレバレシャシン