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音楽プロデューサー  高瀬 清志さん

原点のスタジオワークで北海道発の音づくりを応援

ヤマハのポプコン運営時代に中島みゆき、安全地帯を担当し、
北海道の二大FMステーションの創成期に立ち会った。
ブレイク前の宇多田ヒカルにどこよりも早く冠番組を持たせたことでも知られ、
国内の音楽業界に北海道の存在感を示す話題の影にはいつもこの人がいた。
音楽プロデューサー高瀬清志さん(63歳)の話が聞きたい。芸森スタジオを訪ねた。

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  • 「芸森スタジオ 1」

  • 「芸森スタジオ 2」

  • 「芸森スタジオ 3」

  • 「芸森スタジオ 4」

  • 「芸森スタジオ 5」

  • 「芸森スタジオ 待合室 1」

  • 「芸森スタジオ 待合室 2」

  • 「高瀬 清志さん 1」

  • 「高瀬 清志さん 2」


 

芸術の森地区で息を吹き返した音楽スタジオ

「芸森スタジオ」は札幌市南区に広がる「芸術の森地区」の一角にある。札幌芸術の森から支笏湖方面に車を進め、深閑とした山道を上がっていくとじきに到着。夏ならば緑、冬は白一色に染まった別世界に現れるレコーディングスタジオに、アーティストはおおいに創造力をかき立てられるに違いない。
宿泊もできる滞在型スタジオは北海道でここだけ。自分の音と心ゆくまで対峙できる静謐な空間に惹かれるリピーターが多いという話にもうなづける。

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この芸森スタジオを取り仕切っている人物こそ、1970年代中盤から北海道の音楽シーンをさまざまな場面で支えてきた音楽プロデューサーの高瀬清志さんだ。
「管理人?いやいや使用人(笑)。雪かきから掃除もベッドメイクも全部、自分たちでやっています」そう語る口調のはしばしに、手のかかるわが子に注ぐような愛情がうかがえる。

1993年、大手音楽会社が北海道の拠点として建てた音楽スタジオは最高級の機材と宿泊施設の完備を売りに貸出しを始めたが、その後運営に行き詰まり、ほぼ休眠状態に。2008年2月にウエスの小島紳次郎社長と歌手の松山千春が買い取り、再生するスタジオ運営の適任者として声をかけたのが旧知の高瀬さんだった。
当時、高瀬さんは60歳目前。「小島社長の熱意に打たれて」15年間在籍したエフエム・ノースウェーブを退社し、新会社SAVEの取締役副社長に就任。打ち捨てられていたスタジオに新たな命を吹き込んだ。



中島みゆき、安全地帯を輩出した北海道とは

高瀬さんは札幌出身。北海学園大学に進学したが、時代は「学園紛争真っ盛り」。大学には足を向けず、好きなバンド活動に打ち込んだ。ヤマハの音楽コンテスト「ポプコン」の前身である「ライトミュージックコンテスト」北海道大会のグランプリを受賞後、意外にも大会運営のスタッフにならないかと誘われた。
「当時ヤマハはポプコンを広めようとしていた時期。地元で詳しい人間が欲しかったんでしょうね」。このまま音楽に関われるなら、と1974年ヤマハの北海道支社に入社した。

70年代といえば、ニューミュージックの全盛期である。北海道では中島みゆきや安全地帯という後に一時代を築く「原石」たちが高瀬さんの前に現れた。
「東京のポプコンに出るには、まず数曲録音してポプコンの主催である財団法人ヤマハ音楽振興会に送ると採点されて返ってくるんです。北海道支社はそれまで10点中5点以上取ったことがなかったのに、中島みゆきは10点満点。すぐ東京に連れて行け、という指示が出て、あとは皆さんもご存知のとおりの活躍です」

「初めから抜群に歌がうまかった」安全地帯も担当し、全国区へと押し上げた。東京から遠く、同じ道内でも町同士の距離がある。あのころの北海道にはミュージシャンが自分たちの音楽世界を雑音で乱されることなく育んでいける環境があった。「そうとでも考えなければ、ああいう個性的な音がここから出たことの説明がつかない。そんな時代でした」  

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取材は芸森スタジオのラウンジで行われた。イベントやパーティーにラウンジのみの利用もできる。

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ラウンジの一角に畳コーナーを発見。和室党にはうれしい空間だ。

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暖炉を取り囲む腰掛け用の段差もあり、映画のワンシーンのようなひとときを楽しめる。



リスナーと音楽を共有する、二大FMの開局を体験

数々の出会いを通じて自分自身とも向き合うことになったのだろう。その後高瀬さんは自分のバンド活動に専念するためにヤマハを退社。だが現実は厳しく、音楽業界からも遠ざかりかけていた時のことだった。
ウエスの小島社長から「来年FM局ができる。音楽番組が作れる人間を探している」と言われ、「ぜひやらせてください」と即答。ウエスに入り、以前から関心のあったメディアの世界に飛び込んだ。

FM北海道、愛称「AIR-G'」は道内初の民放FM局として1982年に開局した。
「AMとの一番大きな違いは曲を最後までかけるということ。ステーションとリスナーが音楽を“共有”するためにはどうしたらいいか、曲紹介一つとっても全員が試行錯誤でした」
AIR-G'開局以前は新曲キャンペーンで来道するのは演歌歌手ばかり。局の存在自体がポップスやロックにもゲスト出演の機会を増やすことになり、「北海道から仕掛ける」という戦略も始まった。

やがて道内2番目の民放FMとして「NORTH WAVE」の開局を聞きつけたとき、高瀬さんは「やるなら自分が」という思いを抑えきれなかったという。「AIR-G'は邦楽7に対して洋楽が3。次にできる局は自分が好きな洋楽が中心になるのはわかっていました。悩んだ末に小島社長に相談したら“おまえ、やりたいんだろう”と一言。送り出してくれました」



ミニコミマインドを忘れないマスコミの発信者に

NORTH WAVEでは局全体をバンドに見立てた一体感にこだわった。
「DJ1人が“これがいい!”と叫ぶんじゃなくて、ステーション全体が“今はこれだよね!”と声を揃えるノリが大切。それに共感してくれる仲間が集まってくれました」

あるとき、「ワンデイ・ジャズ・エフエム」と題して、終日すべての生番組でジャズを流すという前例のない企画に挑戦した。新聞告知をすると、70代の男性から「やるじゃないか」というFAXが送られてきた。当日は若いリスナーからも「ジャズを初めて聴きました」と好感触が届き、打ち上げのために頼んだピザの配達人からは「今日、最高でした!」そう伝えたくて店長自らが配達を買って出た姿に高瀬さんはすべての苦労が吹き飛んだという。

「ビジネス上、数字とかクライアントとか気になることは山ほどありますが、やっぱりここぞというときにステーションの心意気を見せないとリスナーは離れていく。ラジオはマスコミですが、心はミニコミなんです。自分たちが面白い、かっこいいと思うことを貫くミニコミマインドを忘れると、つまらない局になってしまう。だから僕の中ではNORTH WAVEを日本で一番小さくて一番かっこいいステーションにしようと走り続けた15年間でした」
 

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NORTH WAVE時代はブレイク前の宇多田ヒカルの番組を制作。「初めて聴いたとき、これは絶対うちから仕掛けたいと思った。絶対的な手ごたえがありました」



五感を研ぎすます環境で絞り出された音を録る

そして話は2012 年の今に戻り、高瀬さんは4年前から「芸森スタジオの高瀬」になった。「こんなに素晴らしいスタジオを朽ちさせてはいけない。北海道の文化遺産だ」小島社長の一言にノースウェーブの退社を決意。自身がバンドマンだったことも大きかった。
  

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コントロールルームにはビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーチン氏から譲り受けたコンソールが設置されている。 

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ローリングストーンズやスティング、ポール・マッカートニーも使用したコンソールから新たな音を作り出す。

「もう一度僕のルーツであるスタジオワークに戻って、新しい音楽や若い才能、特に北海道の才能を応援したくなった。どんなに便利なデジタル時代になっても、音楽はアーティストの気持ちが一番作用するもの。このスタジオはそこを大事にしたい」

札幌都心から車で30分という立地にありながら、ひとたび芸森スタジオに入ると一切の雑音が消える。建物を取り囲むのは豊かな森と北海道の澄んだ空気。五感プラス音感が研ぎすまされる環境で絞り出されてきた音を録る。
「滞在するアーティストを見ていると、だんだん集中してくるのがわかる。それだけの力を持っているスタジオがここ、北海道にあることを僕らも誇りに思っています」
 

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道産木材と札幌軟石を使ったAスタジオ。20人のオーケストラ演奏も可能。

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ベース音の最も長い波長に合わせた天井は高さ7・5m。

2010年、坂本龍一の楽曲に大貫妙子が言葉を紡いで唄ったアルバム「UTAU」が芸森スタジオで録音されたことはまだ記憶に新しい。「“教授”からは見送りのとき、ぜひこのスタジオを守り続けてほしいと言われました。音楽仲間に広めてくださっているようで本当にありがたいです」

取材当日は札幌のソロギタリスト山木将平さんのミキシングが行われていた。
「これからは北海道のアーティストにもどんどん使ってもらいたい。料金も相談に乗ります。興味がある方はまず連絡ください」。思いきって動くことで得られることはいっぱいあるから、とエールを送る。



〈札幌創造仕掛人に聞きたい! 3つのクエスチョン〉

Q.人生を変えた出会いを教えてください。
A. やっぱりウエスの小島さんですね。すべての転機で僕のやりたいことをやらせてくれた。「高瀬清志」のプロデューサーです。冒険家にして探検家で、どんなに障害や不安材料があっても「なんとかなる!」とつねにポジティブ。やりたいことへの熱意に心から敬服します。

Q.心に残る一言は?
A. あれこれ悩んでた二十歳くらいのときですか。おふくろに「一生は一度しかないんだから。好きな道を選んだのならやりたいことをやりつくしなさい」と言われて、すごく勇気をもらいました。でもしばらくして、その言葉の重さに気づいて(笑)。やりつくすってさ、重いでしょ。おふくろは昨年98歳で目をつぶりました。生粋の東京人でした。


Q.札幌のまちの魅力とは?
A.一言でいったら「冬」。札幌の冬がすばらしい春を、夏を作っている。この冬がなかったら札幌の文化ってないんじゃないかな。根っこにこの冬があるからアーティストたちからもいろんな詩や音が出てくる。そう思います。



●芸森スタジオ http://www.geimori-st.jp/
所在地:札幌市南区芸術の森3丁目915-20
TEL:011-206-7355

 


取材・文 佐藤優子(耳にバナナが
撮影 ハレバレシャシン