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Studio RICCIO ビジネスは"アートの火種"から生まれる

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2000年に塚原義弘さんが設立したStudio RICCIO(スタジオリッチョ)は、翌2001年、札幌市デジタル創造プラザ(ICC) に第一期生として入居。ICC卒業から3年が経ち、現在は「職業音楽家」として、数多くの実績を積み重ねている塚原さんに、北海道・札幌で、音楽ビジネスをどのように展開しているのか、お話を伺った。

Studio RICCIO代表の 塚原 義弘さん(47歳)


音楽の素地はテレビアニメの主題歌と中1で手にしたギター

仮面ライダーの主題歌を歌いながらライダーごっこをし、テレビアニメの音楽が好きな普通の少年だった塚原さん。中学1年になって、家にあったクラシックギターを初めて手にし、あがた森魚、浅田美代子、吉田拓郎、井上陽水など、当時流行っていた曲を弾き始めた。 「毎日ギターを弾いていたら、1日1日、少しずつ弾けるようになっていたように思います。中学時代はフォークに夢中で、高校生になってエレキギターを持ち、バンドをやったり、吹奏楽部に入って、ギターやパーカッションをやっていました」。
当時、音楽の情報源となっていたのはラジオ。朝から晩まで、好きな番組を聴いて、ロックやジャズなど、外国ミュージシャンの演奏にも触れていた。
ごく一般的な高校生が好きな音楽とはちょっと違うジャンルに興味を持ち始めた塚原さん。フリージャズも好きで、自由な演奏に興味を持つようになる。
「自分が好きで弾いていた音楽は、周囲の大人たちにはあまり理解されなくて、それが悔しくもあり、当時流行っていたギター音楽は、聴いてその技法をマスターしていました。普通の演奏はできるけど、自分が好きな音楽はそれじゃないから弾かない、というひねくれた高校生だったかもしれません(笑)」。

塚原さんが初めて手にした楽器はギターだった


音楽に関わっていれば仕事ができた頃

釧路で生まれ育った塚原さんは、高校卒業後、地元で3年ほど調律師の仕事に携わった。その後は、イベントのPAをやったり、知り合いからの依頼で曲を作ったり、アマチュアバンドのとりまとめをしたり......。ご当地ソングがたくさん作られていた時代でもあり、有名な作詞家・作曲家の先生が作った曲をアレンジして、シンセサイザーだけで曲を仕上げるような仕事もこなしていた。 「友人たちの間で、これからは"マルチメディアの時代だよ"という話になり、プログラマ、プロデューサー、デザイナー、そして音楽をやっている僕が一緒になって、会社を作ることになりました。ちょうど3DOというマルチメディア端末機器が発売された頃でした」。
この会社では、札幌の企業から孫請けで仕事をしたり、地元の仕事もこなしていた。塚原さんは30代半ばまで釧路で過ごし、その後、札幌の仕事が増えたこともあって、仲間と一緒に札幌へ住まいを移すことに。
1996年には、アニメーション・デジタルコンテンツ製作会社『サテライト』に参加し、海外コンテンツのサウンド面でのオーサリングを手がけたり、デジタルキャラクター「リトルテラ」のサウンド全般を担当した。1998年には初のオリジナルソロCD『Not NaTure』を製作。名刺代わりにCDを手渡し、さらに仕事の幅も広がっていった。
「頼まれれば何でもこなしていました。そして、その仕事を見たり、聴いたりした人から、新しい仕事がくるというような感じで、音楽に関わっていれば、何がしかの仕事ができていたように思います」。


職業音楽家として仕事を展開

2000年に一人でStudio RICCIOを設立し、自宅を仕事場として活動を初め、翌年には、知人の紹介でICCの開設を知り、第一期生としてICCに入居した。
ICC入居時には、他のクリエイターたちとのコラボレーションも積極的に行ったという。「ICCに入る前は、起業して、いろいろな仕事をきちんとこなして、ビジネスとして成り立つようにしなくちゃと考えていました。でも、ICCに入って、新しく出会った人たちとコラボレーションする中で、より音楽担当としての自分や役割が見えるようになり、逆に"アーティストとして、音楽だけでやっていける"と思うようになりました。よろず屋ではなく"職業音楽家"と名乗って、音楽だけの仕事に絞ったのもこの頃です」。
ICCを卒業してオフィスを移してからも、順調に職業音楽家として仕事を展開し続けている。一度請けた仕事は継続されることが多く、さらに新規でも仕事が増えているという。 現在の年間製作曲数は、おおよそ、CM関係50曲、映画関係20曲、ゲーム系100曲 にものぼり、特に映画関係では、「Monkey love」(ロイストン・タン監督作品)のように、自らが音楽を担当した作品が、世界最大の短編映画祭(クレルモンフェラン短編映画祭)でラボ部門のグランプリを受賞するなど、輝かしい実績を残している。
「自分の引き出しにない音楽製作を依頼された時、『「できない」と言ってと断る人』と『請けて苦しむ人』がいると思います。僕の場合は、苦しんだり悩んだりせずに、クライアントが要望しているジャンルの音楽をとことん聴き、情報収集して自分なりに理解してから仕事にかかります。要望に応えるために自分にできることを考えて実行する。そうしてクライアントの要望に応えるものが納品できれば、その知識が自分のものになって、より仕事の幅が広がっていくということを、今まで繰り返してきました」。
これを「当たり前のこと」として実行してきた塚原さんに、プロとしての意識、そして誠実な姿勢が感じられる。


アーティストとして生きていることが "アートの火種"になる

塚原さんは、大学のマルチメディア系の学科で、講師としての顔も持つ。「人に教えることは、漠然としていたことを体系づけるいいきっかけになる」という。「音楽家を育てるための教育というよりも、学校で音に関する知識を身につけることで、豊かな感性を持った大人になってほしい。そして、社会に出てからどこかで生きてくれればいいなと思っています」。
職業音楽家や大学講師として、忙しく仕事をする中で、今、さらに大きな仕事がスタートしようとしており、目下、個人事業主から法人化への準備も進めている。アーティストとして演奏活動も続け、会社の経営者ともなった塚原さんは、今後どのように、そのバランスをとっていくのか。
「自分の中で、アーティストとして考えたり生きていることは"発想の源"であり、"アートの火種"になっています。これをうまく処理すると、いろいろな音楽が作れるし、そこから、商業ベースで考えたり、イベント展開を考えたり、さらには経営的な視点でも生かせると思います。アーティストとしての活動は、自分にとってコアな部分で、なくてはならないものだと思います」。
「ビジネスすることも嫌いじゃない」という塚原さんは今、職業音楽家&経営者としてのさらなる一歩を踏み出したところだ。



●Studio RICCHO(スタジオリッチョ)
〒064-0802 札幌市中央区南2条西22丁目1-45 HAL22-4F
TEL : 011-641-1155
ウェブサイト  http://blog.livedoor.jp/studioriccio/
Creator Profile  http://s-xing.jp/db/unit/prof0037.html

取材・文 佐藤保子