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スペシャルインタビュー 札幌交響楽団コンサートマスター 大平まゆみさん

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札幌交響楽団でコンサートマスターを務める大平まゆみさん。
その温かなバイオリンの音色と素敵な笑顔は多くの人の心を魅了します。
昨年は2枚のCDをリリースし、病院や福祉施設での演奏にも力を入れるなど、様々なシーンで音楽を提供されています。
さらに、10月開催予定のSAPPOROショートフェスト2009(第4回札幌国際短編映画祭)では国際審査員に就任。
卓越した技術を生かして活動の範囲を広げる大平さんに、インタークロス・クリエイティブセンターのチーフコーディネーター・久保俊哉がインタビューしました。

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- 最初に、コンサートマスターという仕事について教えていただけますか?

オーケストラのコンサートで、指揮者の左側、指揮者に一番近いところに座ってバイオリンを弾く人がコンサートマスターです。コンサートの始めにオーケストラのチューニングをリードしたり、本番では演奏が円滑に進むように指揮者とオーケストラのパイプ役も務めます。
わかりやすいところでは、指揮者が入ってきたら偉そうに立ち上がって握手をするとか(笑)、そういう儀式的なことも担当します。

- 札響のコンサートマスターになられてからどれくらいになりますか?

1998年からなので、今年で11年になります。
今は若い人が入ってきて、コンサートマスターが3人体制になったので、少し自由な時間ができまして、前からやりたかったソロ活動や病院などの施設を訪問して演奏する活動もしています。

- やはり、バイオリンは幼少の頃に始められたのでしょうか?
 
生まれは仙台なのですが、4歳の時にお隣のお姉ちゃんがバイオリンを弾いているのを聞いて、庭に忍び込んで「私もやりたい」と云ったのがきっかけです。習い事のような感じではじめました。
その後、父の仕事の関係で5歳から7歳までアメリカに住みましたが、その間もバイオリンは引き続きやっていました。
当時はバレーボールがすごく流行っていて、背が高かったこともあって、一時期はすごくバレーボールに凝っていました。本気でオリンピックに出るつもりで、毎日、回転レシーブを練習しました。すごく上手だったんですよ。(笑)
そのうちに、だんだんバイオリンが楽しくなってきて、たまたま父に連れられて東京でバイオリンの先生をしている方のところにお邪魔したら、「ちょっと弾いてごらん」と促されて、その時に「君は指が長い。その指を宝の持ち腐れにしないでくれ」と言われました。
その先生に、「バイオリンを習いに通ってみないか?」と言っていただいて、本格的にバイオリンをやることになったのです。それが中学の時です。

- そうすると、仙台から東京までバイオリンのレッスンに通ったのですか?

月に1回、仙台から東京まで通いました。
朝、「ひばり」という特急に乗って、4時間かけて東京の先生のお宅に行き、レッスンをして夜に仙台に戻るパターンでした。中学生が一人でバイオリン持って乗っていると、まわりの席の叔母様たちが声をかけてくれて、アイスクリームをごちそうになったりして、ちょっとした小旅行気分を味わえるのが楽しみでした。
レッスンを続けるうちに、先生から音楽高校を受験してみないかといわれて、東京藝大附属の音楽高校を受けることにしました。まさか受かると思っていなかったので、受かってからが大変でした。両親もまさか娘が東京の高校に行くと思っていなかったので、両親は心配しましたけど、未知の世界を知ってみたいという思いが強かったですね。

- その時にはもう音楽家になろうと決めていたのでしょうか?

いいえ、まだ半信半疑でした。高校でもしっかりバレーボールをやっていましたから。(笑)
高校3年の時の卒業演奏会で、バッハの「シャコンヌ」という曲を演奏したのですが、その時、それまで体験したことのない、何とも不思議な感覚を覚えたのです。
この曲は無伴奏で弾くのですが、気持ちの高揚というか、客席と気の交流ができたというか、集中力をバイオリンに向けられるような、とても不思議な感覚を覚えたんですね。その時に「これだ!」と思って、そこで演奏家になろうと決めたのです。人生の中でそう何度も経験することのない、不思議な感覚でした。

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- それから大学に進まれたのですね?

東京藝大に入ったのですが、入学後3ヶ月でサンフランシスコ音楽院に留学できる機会を得て、絶対に行きたいと思ったのです。
父を説得するために仙台に戻った時のことを思い出しますね。
父は、私が言い出したら聞かないのを知っていましたし、行き先が子どもの時に横浜港から船で着いたサンフランシスコの音楽院だったということもあって、「あそこなら」と許しが出ました。人生ってうまくいくものですね。
父を説得して夜行で東京に戻る途中、車窓から見た日の出がとても素晴らしくて、それを見て、「私の人生これからよ!やっぱりアメリカに行かなくちゃ」と思いました。(笑)

- アメリカでの生活はいかがでしたか?

当時は70年代のヒッピー文化の真っ只中という感じで、みんな裸足で町を歩いていたり、とにかく開放的で、「やっぱりここだ!」と思えるところでした。素晴らしい時を過ごしたと思っています。
また学校がとてもユニークで、「コミュニティサービス」という必須科目があって、これが本当に素晴らしい経験でした。学生が病院や刑務所などに出向いて演奏するのですが、ちゃんと耳を向けてもらえるような良い演奏をしないと注目してもらえません。演奏というのが一方通行ではないということを教わって、とても貴重な経験でした。ボランティア精神もここで学びましたし、1回3ドルの報酬をもらって、勉強しながら演奏する機会が得られたのです。

- アメリカではとても充実していたようですが、悩むことはなかったですか?

音楽院を卒業してから演奏活動を始め、ソロ活動をしたり、人に教えたりしていましたが、
20代で2回くらい壁にぶつかりましたね。
何より辛かったのは、美術作品とかと違って、クラシックは演奏会が終わるともう音は消えてしまって後に残らないんですね。だから、演奏会の後は、たとえ演奏がうまくいっても虚しさを感じました。作品が残る人たちはいいけど、音は残らない。これが辛くて、もうやめようかなと思ったこともありました。

- でも、演奏会の後の余韻というのはとても素晴らしいものですし、昨年はCDを
       2枚もリリースされて、しっかり「残っている」と思います。(笑)


ありがとうございます。(笑)
私の母方の実家がお寺で、祖父はお坊さんだったのですが、アメリカでも仏教のことに興味を持っている人がいて、仏教について色々質問されるわけです。仏教では、すべてのものは消えていくから良いという教えがあって、それで、あまり物事に執着することもないと思えるようになりました。
それと、悩んでいると、なぜか私が音楽家になろうと決意した時に弾いたバッハのシャコンヌを弾く機会に恵まれるのです。因縁というか、私にとって何か意味のある曲なのだろうと思います。
今度、シャコンヌっていうショートフィルムを作ろうかしら。(笑)

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- 札幌にはどういう経緯で来られることになったのですか?

アメリカから日本に戻って、東京で暮らした後、札幌交響楽団にゲストで呼んでいただいたのがきっかけです。
東京時代は東京交響楽団で演奏して、その後もバレリーナの森下洋子さんのバレエにあわせてソロを弾かせてもらう機会をいただいたり、読売日本交響楽団にゲストで呼んでいただいたり、とても良い経験をさせてもらいました。
札幌に来た時は、空港から札幌までの風景がアメリカ中西部のシカゴのあたりを思い出させてくれて、すっかり北海道が好きになりました。
北海道は、精神も歴史もアメリカに似たところがあると思います。日本中から色々な人が集まっていて、新しいことが起こりやすいのではないかと感じました。
今はずっと北海道にいたいと思っています。
音楽にはとても大きなパワーがあります。それをどのように開発していくか、色々チャレンジしてみたいですね。
今思いついたのですが、牛や羊にモーツァルトを聴かせたり、ブドウとかイチゴにクラシックを聴かせて栽培している人もいるくらいですから、私も牛の前でバイオリンを弾いてみたいな。(笑)

 

 

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