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ディレクター  藤村忠寿さん

不動の人気番組「水曜どうでしょう」で15年
仲良しグループではなく、使えるチームを作る

自称“北海道のスター”大泉洋を全国区の人気者に押し上げた
HTBの看板バラエティ番組「水曜どうでしょう」のディレクターを務めて15年。
タレント2人とディレクター2人が作る小さな深夜番組は
2002年にレギュラー放送を終えた今もなお、
DVDや新作が発表されるたびに国内外で話題を集める不動のコンテンツに成長した。 

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おさらいしましょう、「水曜どうでしょう」

HTBの人気バラエティ番組「水曜どうでしょう」の初放送は1996年10月9日。前身にあたる「モザイクな夜V3」の枠を引継ぐ形で、深夜24時50分から始まった。ディレクターの藤村忠寿さんはこのとき31歳。その1年前に東京支社の編成業務部内勤から札幌本社の制作部に異動となり、右も左もわからないまま「モザイクな夜」の現場に途中参加し、体が温まり始めたころに番組が終了。
次は自身がチーフディレクターの立場で新番組作りを会社から命じられ、同じく「モザイク」組だったディレクター嬉野雅道さんとともに動き出した企画が、「水曜どうでしょう」となる。出演者は「モザイク」の企画・出演も務めた鈴井貴之さんと、鈴井氏が立ち上げたタレント事務所に所属していた大泉洋さん(当時はまだ北海学園大学に在学中だった)。

このタレント2人とディレクター2人の小さなローカル番組はその後、日本全国から熱烈な支持を集めるだけでなく、作り手であるテレビ業界にも多大な影響をもたらした。ひたすら道中を映し続けるという前例のない旅企画や、裏方のディレクターが声で登場人物の一人と化す対話スタイル、出たとこ勝負と演出のはざまをつく絶妙なハプニングの数々が、私たちに見たこともない面白さを教えてくれた。今、同じ手法をなぞった他の番組を見るたびに、「水どう」がどれだけ型破りな存在だったかを考えずにはいられない。

では、一体どうしてあんな番組が出来たのか? 「それはですねぇ、会社が僕たちにまったく注目していなかったからでしょうねぇ」。そう、番組でもおなじみの野太い低音でひょうひょうと答えてくれた藤村さん。面白い番組作りの核心に近づこうと、その生い立ちから伺った。

「水曜どうでしょう」 http://www.htb.co.jp/suidou/



抜け道を探してトライを決めるフッカー時代

名古屋市に生まれ、小学校のときは「典型的な仕切り屋タイプ」。クラスの先頭を切って騒いでいるかと思えば、一人で花や動物の絵を描く時間も大切にする子どもだった。中学で目新しさからラグビーを始め、名古屋市立向陽高校でもラグビー部に所属。ポジションは「フッカー」といい、スクラムの最前線からボールを蹴り出す重要な役目を任された。が、このときから既に<人とは違う方向>を見る片鱗はあったようだ。

「普通スクラムは後ろから崩れていくんで、前にいるフッカーは一番最後に崩れて、皆を追いかける目立たない役回り。僕の場合、なんとかおいしいところをさらいたいので、スクラムでは力を抜いて走るほうに力を入れて得点を取っていった。皆が考えないような抜け道ばかり走ってたんで、味方からも“なんでおまえ、そこにいるのよ”という顔をされました。正面突破?しません。当たると痛いから(笑)」

大柄な男たちがぶつかりあう肉弾戦の中で、自分の居場所と役割をするりと見つけていく小柄な藤村選手は、相手チームにとって相当煙たい存在だったに違いない。ラグビーから始まった場と役割についての考察は、その後の社会人になっても続いていく。

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局内のどうでしょう編集室にて。にぎやかなロケ現場から一転して一人きりの作業が続くが、「僕は子どものころから、この両方がないとダメなんです」。



視聴率20%に肉薄、DVD化が大ヒット

高校卒業後は北海道に憧れて北海道大学の法学部に入り、高校の先輩が待ち受けていたラグビー部では主将になった。先輩に紹介されたHTBの報道部でアルバイトを始め、90年に報道記者志望で同局に新卒入社。ところが入社早々の配属で藤村さんは東京支社の編成業務部へ。番組の視聴率とCM料金を毎日照会するCM営業の内勤仕事。5年後には札幌本社の制作部に異動し「水曜どうでしょう」を立ち上げることになるが、この東京で数字を見続けた日々が視聴率のとれる番組作りを目指す布石になった。

「水曜どうでしょう」のオンエア当初は深夜1時近くの時間帯で4%という「それなりの合格点」だった。次に目指す数字はテレビマンなら一度は達成したい10%。藤村さんは動いた。
「当時、HTBのキー局にあたるテレビ朝日では久米(宏)さんの『ニュースステーション』が平均13〜15%だったんです。じゃあ、その後の11:15から番組を始めたら数字がとれると誰が考えてもわかるじゃないですか(笑)。会社に頼んで98年の4月から時間帯を早めてもらったその1、2カ月後には、北海道で初めて10%をとれる自社制作の深夜番組になってました」。

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写真左から番組を裏で支えるディレクター陣の対話集「腹を割って話した」(イースト・プレス)と藤村さんの仕事観、人生観が綴られた「けもの道」(メディアファクトリー)。

その後も高視聴率の快進撃は続き、番組3年目の秋には驚異の18.9%を記録。「怪物番組」と言われる20%に肉薄した。だが、一度だけ19時台のゴールデンタイムに放送する賭けに打って出たときも夢の20%には届かず、この時点で藤村さんは「数字への執着を切り捨てた」と振り返る。

次に取り組んだことは、過去の番組を再編集するDVD全集化。「自分たちが日本一面白いことをやってきたという自負はあるので、オンエアでは使わなかったシーンを含めてもう一度作り直してみたいと思ったんです」。そうして出来たDVD第一弾「原付ベトナム縦断1800キロ」の売上げはこれまた驚きの3万枚に達し、一つの番組で得られる広告収入を遥かにしのぐ自社コンテンツを「水曜どうでしょう」は手に入れた。

「あのとき僕がいつまでも20%にこだわって番組の内容を変えていたら、こうはいかなかったかもしれません。もちろん今も20%がとれる番組はすごいと思う。すごいけれども自分たちは真正面からいってもダメだったんで、横道に進んだ。こう言えるまでに15年の歳月がかかっていることも事実です」

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© HTB 2011



利害関係でつながったチームは強い

「水曜どうでしょう」人気の秘密は、大泉・鈴井のタレントコンビと藤村さん、嬉野さんの4人が築き上げたあの“場の空気”にあることは、誰もが認めるところだろう。「僕らの企画会議は、次どこに行きたい?という目的地を決める程度。それが南極に決まったら南極に行くしかないんです。そこにペンギンをつかまえるとかの演出はなし」。企画そのものよりも“誰がどこでどうする”場と役割が番組の質を決めると、藤村さんは言う。

08年にはHTBスペシャルドラマ「歓喜の歌」、09年には「ミエルヒ」のドラマ演出を手がけた。なじみの4人体制とは人数も顔ぶれも違う現場だが、やはりこのときも一番こだわったのはチーム作りだった。「役者さんが入ってきたときに“いい現場だな”と思ってもらえたら、きっと彼らは本気の演技をしてくれますよ。“もう一度お願いします”と言っても誰も舌打ちしないような雰囲気を作っておけば、細かい演出はいらないんです」。

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藤村さんが演出したドラマ「ミエルヒ」は、平成22年度文化庁芸術祭賞優秀賞(テレビ部門ドラマの部)や第36回放送文化基金賞番組部門テレビドラマ番組賞、第47回 ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、ABU賞2010テレビドラマ部門審査員奨励賞ほか、多数の賞を受賞した。© HTB

だが、そんな現場を作れるのは仲良しグループかと問われれば、藤村さんは首を横に振る。「あのですね、人はすぐに“みんなでがっちり固まっていこう”と考えるけれども、いいんです、利害関係でつながっても。各自ができることをやる。自分ができないことはアイツに回そうとかね(笑)。好き嫌いじゃなくて利害関係でつながったチームは強いですよ。たとえ違う意見でも提案してくる人はすごくいい。僕が思っても見なかったところから広げてくれるから。ただ、逃げてしまう人はダメだなぁ、と。全力を尽くさずに“なあなあ”で済ませようとする人からは黙って笑顔で遠ざかります」。
 

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「同じ社内でいうと自分と違う目線を持つ嬉野さんの存在は大きいですよ。番組の編集をしていても“お笑いが好きじゃないおっさん”のあの人が笑うと、これはイケると思う」



震災以降、時の経過とともに見えてくるもの

2010年は経済産業省による若手クリエイター育成事業「コ・フェスタPAO」に参加し、藤村さんは北海道の3名を選出した。2011年10月5日から始まる札幌国際短編映画祭のスペシャル・プログラムで、彼らが撮り下ろしたオリジナルのショートフィルムが上映される。

3.11以降、ものづくりの現場が難しくなっていませんか?と尋ねると、「時間の問題だと思います」と即答。続けて「現場にすぐ飛んで行って何かの役に立ちたい人もいれば、僕みたいにもうちょっと時間を置いてから俯瞰で何が足りないのかを考えたいやつもいる。今みたいな空気がずっと続くとは思えないし、一年くらいたったころにあの出来事で僕らは何を考えたのかを話す時期がくると思う。僕自身も次のドラマをやるときはあの出来事があった後の話になるので、自分なりの考えを深めたものを作りたいです」と語った。



〈さっぽろ創造仕掛け人に聞きたい! 3つのクエスチョン〉

Q.運命を変えた出会いは?
A.
うーん、運命は変えられないと思っているんで…嬉野さんとの出会いを含め、多分人生の出会いすべてがそういう出会いを求めてたってことじゃないですかね

Q.心に残る一言は?
A.
しょっちゅうです。久保さんに「ショートフィルムは日本に向いてるんですよ。あれは俳句だから」と言われたときも「このオヤジ、うまいこと言うな」と(笑)。「水曜どうでしょう」から生まれた名言「トラじゃんよー」とか「シカでした」は、人間の極限状態から生まれたもの(笑)。そこまでいく状況を丹念に見せてるんで、なおさら効くわけです。

Q.札幌のまちの魅力は?
A.
世界一と言ってもいいような恵まれた住環境と、まちが非常にコンパクトであること。札幌駅から大通の間にまちの機能が集中しているなんて実に便利ですよ。じゃあ、こんな素晴らしい札幌に住みながら自分は何をするかというと、北海道ではない場所との仕事をする。道内の市場にこだわり続けていては実現しづらい仕事を東京や海外とやっていく。ネットワーク環境の発達はすでにそれを許す時代に入っています。
「水曜どうでしょう」を始めるときも、当時ロケといえばススキノや狸小路が定番。そんな地元に固執しすぎる番組作りから逸脱したい思いがありましたから。番組が始まって2カ月後には僕、オーストラリアに行く海外出張の申請を会社に出してました。報道部だってそう簡単に行けない時代にススキノロケの延長みたいにすーっと申請して、すーっと行くんです(笑)。やっぱり会社がノーマークだったからできたんですねぇ。




●北海道テレビ放送株式会社(HTB) http://www.htb.co.jp/
所在地:札幌市豊平区平岸4条13丁目10番17号
TEL:011-821-4411
設立:1967年12月1日
資本金:7億5,000万円
代表取締役社長 樋泉実(といずみ みのる)
従業員数:170名
業務内容:デジタルデータ放送(固定データ、ワンセグデータ)
         DVDソフト制作事業(水曜どうでしょうほか)
         ライブラリービジネス(英BBC Motion Galleryでの映像配信)
         インターネット(ホームページ、携帯サイト)
         HTB on Line shop
         番組販売(地上波、海外、BS、CS、インフライトほか)

 

 

取材・文 佐藤優子(耳にバナナが
撮影 ハレバレシャシン